学長ブログ

佐渡トライアスロン③ スイム 2016.09.17

スイム バトル

トライアスロン・スイムのスタート直後の写真です。スタートして400mくらいまでこのよう団子状態が続き、その後は泳力の差でばらけます。この状態をバトルと言います。

佐渡大会では50mほどのスタートラインから990人が一斉にスタートしました。

プールはコースロープがあり、底が見えるので真っ直ぐ泳げますが、何もなければ人は真っ直ぐ泳げません。このような状態で斜めに進む選手、上から乗っかってくる選手、接近しすぎて腕で殴られたり、脚で蹴られたり、まさしくバトルです。

トライアスロンでは毎年数件の死亡事故が発生します。ほとんどがスイム中です。バトル中に多量の水を飲んでしまったり、気を失ったりが原因だと思います。練習不足で出場するのも危険です。

トライアスロンのスイムの特徴は後にバイクとランがあるので脚を残しておくためにキックを控えめにして泳ぐことと、バトルで泳ぎやすくするために腕は広げないようにして泳ぐことです。

990人中984名が完泳。私は1時間27分55秒で328位でした。若い選手も含めて59歳の私が上位3分の1に入ったのは健闘した方です。

スイムが苦手な選手や年配の選手はバトルを避け、遅れてスタートします。私の場合は年配でもスイムで上位に入りたいのでバトルを避けることができません。

佐渡トライアスロン② 2016.09.16

トライアスロンは距離によって複数に分かれています。

①スイム ②バイク ③ラン *単位km

スプリント ①0.75 ②20 ③5   *高校生が出場できるのはスプリントだけです。

ショート  ①1.5  ②40 ③10 *オリンピックはこの距離です。

ミドル   ①2~2.5 ②60~105 ③20~25

ロング   ①3~3.8 ②150~190 ③42.195

ショートまでは瞬発力と高い心拍数の継続が求められるので若い人が有利です。

年齢が増してくると引退するかミドルやロングへ転向していく選手が多くなります。

私が所属するNSIトライアスロンスクールのヘッドコーチ西内洋行プロも若い頃に2回オリンピックに出場し、30代半ばからはロングに転向しました。41歳ですが、今でもスイムは日本で一番速いです。佐渡のレースは一昨年と昨年は優勝、今年は2位でした。

ロングのレースになると心拍数がある程度までしか上がらないし、年齢が増しても持久力はそれほど落ちないのでトップレベルが維持できます。

また、トライアスロンは過酷と言われますが、スポーツ未経験の選手も結構います。長距離が泳げるようになると誰でも完走できるスポーツです。ただ、突然出場しても無理です。継続的にトレーニングして初めて完走できます。

何でも同じですが、継続することが難しいので取り組める人が少ないのです。

佐渡トライアスロン① 2016.09.16

9月4日の佐渡国際トライアスロン大会に出場しました。

日本で一番長いレースです。(スイム3.8km、バイク190km、ラン42.195km。合計235.995km)

直線距離にすると大阪から名古屋を超え、静岡市の近くまでになります。

午前4時30分集合、6時スタート、制限時間15.5時間(夜9時半)。

当日の佐渡は台風の影響でこの夏1番の暑さとなり、午前8時に30度を超え、最高気温は34度に達しました。大阪の真夏の日に1日中レースをしているようなコンディションでした。

これだけ暑いと優勝タイムは昨年より30分以上遅く、普通の選手は1時間以上遅いか、何ヶ所かに設けられた制限時間のポイントに間に合わずリタイアする選手が続出しました。

普通のレースでは90%前後が完走しますが、今回のレースは完走率62.2%と非常に厳しいレースになりました。

私は最後まで粘りましたが、ランの37km地点の制限時間14時間55分にわずか間に合わずリタイアとなってしまいました。残り5kmで無念のリタイアですが、それだけの実力しかなかったということです。

来年こそは完走を目指します。

日本人は団体戦が好き  2016.08.25

オリンピックを見て、日本人は本当に団体戦が好きだなあと思いました。

個人戦のメダルよりも、水泳のリレー、卓球女子団体、体操男子団体、陸上のリレーなど団体でメダルを獲った時の方が大いに湧きました。

選手も団体戦でのメダルの方が嬉しさも大きいようでした。

みんなで力を合わせて何かを成し遂げなければならない農耕民族の遺伝子が現代でも脈々と受け継がれていることがわかります。

私にとって最もサプライズなメダルは陸上400mリレーの銀メダルです。アンカーのケンブリッジ飛鳥とジャマイカのボルトが競り合うなんて夢のようでした。。

日本選手がオリンピックで陸上100mの決勝まで残ったことはありません。今回も外国は9秒台の選手が多数いる中、日本人は1人も10秒を切った選手はいませんでした。個人の走力だけを合計すると決勝に残ることすらできなかったでしょう。

速さで劣るが、力を合わせることが好きな日本チームがメダルを獲るためにやったことはバトンリレーの技術を高めてタイムを短縮することでした。他の国が個人で勝つことを優先してリレーの練習をあまりしなかったの対して、日本はメダルに届くにはリレーしかないと判断し、バトンリレーの練習を積み重ねた成果が銀メダルとなりました。

どの団体競技も相手チームを分析し、戦略を立てるものですが、陸上競技に関しては個人競技と認識され、個人の能力を高めるための対策には熱心ですが、唯一の団体競技であるリレーはあまり研究されず、対策を練っていなかった。そこを上手くついた日本チームの勝利でした。

団体戦と言えば、東進のグループミーティングも、本来個人種目である受験勉強に団体戦の要素を取り入れて、受験生のモチベーションを向上させることに効果をあげています。受験勉強に団体戦の要素を取り入れる発想は日本人しか考え付かないことでしょう。みんさんもしっかり日本人の遺伝子を引き継いでいるようです。

オリンピック閉会 2016.8.24

リオのオリンピックが閉会されました。

日本は多くのメダルを獲得し、2020年の東京オリンピックへ弾みをつけました。4年後が楽しみです。

印象に残ったことを書いてみます。

レスリング 吉田選手

残念ながら4大会連続金メダルが達成できませんでした。彼女は日本選手団の主将です。オリンピックの主将になると金メダルが取れないというジンクスがあります。日本人は団体の長になると自分のことより団体の成功を優先します。必ずメダルを取らなければならないという物凄いプレッシャーを自分にかけてしまいます。

史上最強と霊長類と称された彼女はプレッシャーに敗れたという印象を受けました。

彼女は負けた数日後に「勝ち続けて引退するよりも、負けを経験して引退したほうが良かったと思うようになった」と語りました。この言葉は真実だと思います。人間には成功体験と失敗体験の両方が必要で、その両方が人間を成長させます。これからは女子レスリングの指導者として活躍することを期待しています。

卓球 福原選手

幼稚園の頃から天才少女と注目され続けて二十数年。トップを張り続けて本当に偉いと感心します。

女子団体の主将として銅メダルを獲得しました。さぞかし嬉しいだろうと思うものですが、インタビューで彼女は「苦しかった。苦しいオリンピックだった」と語りました。

彼女も主将としての責任感がきつかったのでしょう。しかし、メダルを取って喜びとは別に精神的に苦しかったと言うのは日本人だけのようです。

外国の選手は勝つために厳しい練習を積むのは同じですが、根本にスポーツは楽しむものだという意識があります。日本人は楽しむというより、道を極める修行者のように映るそうです。

そして、オリンピック選手になると国民の期待を背負い、自分のため、楽しむというより期待に応えなければならないとプレッシャーをかけてしまいます。だから「苦しかった」のでしょう。

日本人独特の生真面目さが象徴されたインタビューだと思いました。

トライアスロンスタート 2016.05.23

22日(日)に今期初のトライアスロンに出場して来ました。

長良川(岐阜)ミドルレース(スイム2km・バイク80km・ラン20km)を5時間36分で完走しました。

冬場にややゆるんだ身体を急ごしらえで鍛えましたがタイム的にはイマイチでした。

今年は6月に徳之島(奄美地方)、7月に湯原温泉(岡山)、9月に佐渡島(新潟県)に出場予定です。

どれもミドルレース・ロングレースと呼ぶ長時間のレース、特に佐渡島はスイム3.8km・バイク190km・ラン42.195kmで日本で一番長いレースです。朝6時にスタートして夜9時にゴール、合計15時間を想定しています。

長良川トライアスロン

長良川のレースでチームメイトのゴールシーンです。

トライアスロンはこのように家族やチームメートといっしょにゴールすることが認められています。

トライアスロンの選手は案外がっちりしています。スイムとバイクは筋力がある方が有利、最後のランは体脂肪の少ないランナー体型が有利です。また、長時間になるので途中でレースをしながら補給をします。レースの後半は固形物が食べ辛くなるのでジェルなどの流動物になります。いかに効率良く補給するか、体力だけではなく、非常に作戦が必要なスポーツです。

3万年前の航海 2016.04.09

3万年以上昔の旧石器時代に日本に渡ってきたのが日本人の元祖です。沖縄の島々で多くの人骨が最近発掘されています。

3つのルートがありました。

①朝鮮半島から対馬を経て九州・本州へ

②樺太から北海道へ(当時陸続き)

③台湾から沖縄の南西諸島を経て九州へ

特に③が最も困難なルートでした。何故なら、当時は金属器がないので木を加工して船を作ることができず、竹製か草舟しかなかったからです。

台湾から日本最西端の与那国島まで100km以上あります。台湾の最も高い山の頂上からも見えるかどうか、おそらく海を渡った人たちには見えていなかったでしょう。

しかし、見えない土地に向かって航海に出た旧石器時代の集団がいたことは事実です。(遭難なら子孫が残らないので集団です)

その3万年前の航海を当時の舟を再現してみようというプロジェクトがあります。海部陽介(国立科学博物館 人類史研究グループ長)先生と、さまざまな研究分野の先生が協力して実行されます。

過去の遺跡や人骨を材料に研究するのではなく、実行する、それもさまざまな研究者が力を合わせてです。新しい研究方法だし、ロマンがあってすばらしいプロジェクトです。

支援金を募集しているので、私も参加しました。

以下がそのプロジェクトの紹介です。

3万年前の航海 徹底再現プロジェクト

https://readyfor.jp/projects/koukai

 

明星高校が真田丸の跡地だった 2016.04.07

5日の朝日新聞夕刊に『真田丸は「四角」だった 城郭図やレーダー探査で有力に』の記事がありました。

現在NHKの大河ドラマは「真田丸」です。

大阪冬の陣で豊臣家は滅亡しますが、大勢が籠城するなかで真田幸村は大阪城の南にある現在の明星高校付近に真田丸という出城を作って徳川方に応戦します。真田軍は徳川軍の数分の1の軍勢でしたが、見事な作戦を駆使して徳川方に大損害を与えただけではなく、家康の本陣まで押し寄せ、家康を敗走させます。家康は何度も死を覚悟して、切腹しようとしたと家康の家臣が後述しています。

その真田丸、これまでは明星高校より東側で半円形だと伝わってきました。

しかし、徳川によって取り壊された真田丸の跡地を江戸時代初期に実際に調査した「摂津真田丸」の図が「諸国古城之図」にあり、それは四角形に近かったことが最近わかりました。

また、レーダー探査をしたら、どうやら従来の説よりやや西側の明星高校あたりに痕跡らしい反応があったとのことです。

先日、関が原の戦いの主戦場は関が原ではなかった可能性が出てきたことを書きました。我々が歴史の常識の中には、後世の想像であったり、脚色されたものが多いことを今回も痛感しました。

歴史だけではなく、何事においても常識にとらわれず、新たな発想や視点、方法で見直すと新発見があるようです。常識を疑ってみることも大切ですね。

30年来の謎が解ける 2016.04.05

元国土交通省官僚で河川を専門としていた竹村公太郎氏は、日本の歴史に「地形」という観点を取り入れて様々な疑問点の提示や謎解きをしています。

歴史学は古文書や遺跡を元に構築されてきましたが、史実が何故そういう結果になったのかに「地形」という視点から読み解くという新たな方法が登場しました。歴史好きにはとても新鮮で静かなブームになっています。

カイツブリという小型の水鳥がいます。古代は「鳰」(にお・にほ)と呼ばれていました。

琵琶湖を昔、鳰の湖(うみ)とも言っていたのは、琵琶湖にカイツブリがたくさんいたからだろうと想像できるのですが、大和の国(奈良県)をかつて「鳰の国」とも呼んでいたという文章を30年以上前に読んだことがあり、何故盆地なのに水鳥の呼称を使ったのか不思議でずっと謎のままでした。

竹村氏の本で初めて、かつて奈良盆地から流れ出していた大和川の源流が地震のためにせき止められ、奈良盆地が大きな湖になった時代があったことを知りました。その湖にたくさんのカイツブリがいたから「鳰の国」とも呼ばれていたのでしょう。30年来の謎が解けてスッキリです。

その後、湖の水は再び大和川へ流れ出し、今の盆地になりました。元は湖だったので何もなく、大和朝廷も新たな都を作りやすかったようです。

その大和川が江戸時代前半まで京橋付近を流れており、大川(旧淀川)と合流していたことを知っていますか?江戸時代に蛇行する大和川がたびたび氾濫するために、現在のようにまっすぐ大阪湾に流れ込む治水工事をしました。

その結果、上町台地以外は沼地か多かった現在の大阪平野が陸地になりました。大和川の河口に流れ込む土砂の影響で、かつて港町として繁栄していた「堺」が、港としての機能が落ちて衰退してしまいました。

このように「地形」という観点から歴史の必然を考えることを竹村氏は提供したとも言えます。

本を読むことによって長年の謎が解けました。やはり、ずっと勉強は続けるものだと改めて思い知りました。

関が原ではなかった? 2016.04.04

久しぶりのブログです。

1600年旧暦9月15日、豊臣方の西軍と徳川方の東軍のよる天下分け目の合戦「関が原の戦い」、実は関が原ではなく、8kmほど東側の「青野ヶ原にての合戦」だったという古文書が発見されました。

私たちが思い込んでいる史実の情景の多くは、それからかなり年月が経ってから書かれたものや面白くするために脚色されたものが多いのです。(2次資料)

今回発見された古文書は公家の名門近衛家伝来の古文書を残す「陽明文庫」に保存されていたものだし、合戦5日後に近衛前久が書いているものなで脚色もない事実に近いと考えられます。(1次資料)

関が原の戦いの両軍の布陣は地形的におかしな点があるらしいです。実際に、世に出回っている布陣は明治時代に陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史』に記された布陣図が元で歴史的根拠はないとも言われています。実際に、関が原を発掘調査しても合戦の遺跡は見つかっていません。

「関が原」という言葉が初めて登場するのは、合戦から半月以上後の島津家(薩摩藩)の古文書からです。島津軍は西軍として戦い、敗れた後、敵陣を強行突破して逃げ帰ったと伝わっています。

天下分け目の合戦の主戦場は青野ヶ原。青野が原の戦いでの島津軍のダメージは大したことはなく、島津軍が逃げ帰るときに東軍と壮絶な戦いをしたのが関が原だった。よって、島津軍にとって命運を分ける戦いは「関が原の戦い」だったので古文書には「関が原の戦い」と記し、それが世間に広まったとも予想されます。

これから事実が解明されていくと思いますが、ひょっとしたら日本史の教科書の記述内容が変わるかもしれませんね。

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